小川正美 人生はホントの自分に戻る旅。

普通の会社員から離婚して無職になり一念発起、弁護士になった私の半生とこれからのライフワークを綴ります。

私の半生 ⑥ロースクール入学、母の死

☆前回

私の半生 ⑤ロースクール受験を決意(後編) 母を助けられなかった。

https://masamiogw.hatenablog.com/entry/2018/08/02/011930

 

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母を助けられなかった思いを抱えた、崖っぷちの私は、

ついに本当にがむしゃらになる時が来たとばかりに、地元の横浜国立大学ロースクールに入学することになりました。

 

2005年、平成17年のことです。

 

母は、私の入学を、大学入学の時と同じか、それ以上に喜んでいました。

 

11年ぶりの学生生活は、とても緊張しましたが、

意外と同年代の社会人組も多く、また、少人数の大学院だったため世代は余り関係なく仲良くしていました。

 

 

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ただ、私には、入学前から懸念事項がありました。

 

入学前の2月、母が夜中に突然心臓と背中が痛いと苦しみ出し、救急入院したのです。

 

 

発作のような症状だったのですが、血液検査等をしたところ、急性膵炎による痛みとの診断で、退院しました。

 

確かに、痛みは急速に引いたようで、母は、経過観察のため通院をしていました。

 

 

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しかし、入学間もない5月だったと思いますが、

母がまた、前回と同じような発作で倒れ、入院しました。

 

今回は、カテーテル検査等、徹底的に検査をしました。

 

 

検査の結果は、胆のうがん、ステージ3でした。

 

 

父が亡くなってから23年、周りの家族や親戚が亡くなることがほとんどなかった私と弟は、久々に人の死を身近に感じ、途方に暮れました。

 

まずは、母も告知を受けたので、支えなければならない。

 

ドクターは、ステージ3だが転移していなければ手術をするという方針を打ち出した。

手術ができれば、予後が良いらしい。

 

そもそも、がんについて私は知識がなさ過ぎるから、勉強しなければ。

 

国立がんセンター有明の癌研のサイトを目を皿のようにして読みました。

分からないことも、たくさんありましたが。

 

 

この時の入院は長引いて、1ヶ月ほどでした。

 

毎日のようにお見舞いに行き、

気丈に振る舞ってはいるけれど、あまりの検査の多さにみるみる体力が落ち気力も落ちていく母、

看護師さん達に気を遣う母に、

悲しくなりました。

 

消灯時間後に、こっそりとテレビの音を消して、サッカー日本代表の2006年ドイツワールドカップ予選を観て、

来年はドイツに行こう、と話をしていました。

 

 

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結局、

母がドイツワールドカップを観ることは、できませんでした。

 

 

検査の結果、肝臓にがんが転移していることが分かり、

外科手術は不可能となりました。

 

夏前に退院し、自宅療養をしながら、

抗がん剤治療を数クール受けましたが、奏効せず。

 

 

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年明け、いよいよ体力が落ち、

自ら、もう限界だから入院したい、と言いました。

 

入院後、ホスピスの予約がやっと取れましたが、

結局は、ホスピスに入ることなく、

最期の2週間ほどは、痛みをケアするためのモルヒネで、意識が朦朧としながら、

それでもお見舞いに来てくれた方々に対応して、

 

2月の終わりの早朝に、亡くなりました。

 

 

遺体を葬儀社に送った後、空を見上げると、

それはそれは青い、雲1つない、空でした。

 

 

私は、母がこの病気になってからずっと止めていた煙草を、1本吸いました。

母も、長年スモーカーだったのです。

 

(今は私はもう12年は禁煙しています。)

 

 

勉強が忙しいから等と言わず、体力のあるうちにもっと色んなところへ行けば良かった、

2月のロースクールの定期試験を受けずに休学したほうが良かったんじゃないか、

 

なんでもっと優しくできなかったんだろう。

 

 

あっという間に逝ってしまい、自分が子どもだった父の時とは、違う種類の後悔が、波のように、私を襲いました。

 

 

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あの時を思い出すと、本当に辛かったなあ、と思います。

 

でも、ここ2、3年、私は、母の死から本当の意味で立ち直れたと思っています。

 

お墓に行っても、悲しくて泣くことはなくなり、私の近況を報告するのと、感謝を伝えるのみです。

 

 

今は、

自分がこんなにも後悔するほど母を愛していたことに気が付いたし、

後悔はどうしたってするものだし、

私は、あの時できるベストを尽くしたのだから、母も許してくれているはず、

むしろいつまでも私が立ち直らなかったら母は心配するだろう、

 

そして産んでくれてありがとう、

 

と思っています。


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